反面教師という言葉の示す通り、人の過ちは時として成功例よりもよいお手本になります。きらびやかなイメージのその裏で、海外留学という選択肢は、時に人のキャリアやその後の人生のレールを大きく脱線させます。
今回は、ドイツの大学院留学を目指し、語学試験を受験しますが、結局3度めの試験でも合格に至らず、日本に帰国した木下さん(25歳)のお話です。
上京しFラン大学に入学と高まる学歴コンプレックス
木下さんは東北の出身で、大学受験時代は一橋、私立であれば早慶レベルを狙っていましたが、受験のプレッシャーに弱く、結局一浪し、東京の中堅私立大学に進学することとなります。
元々、そんなに人付き合いが得意なわけでもなく、また、アクティブなことが苦手だった木下さんは、そんな中堅私立大学の大学生活のはっちゃけたノリについていけず、もっぱら時間をバイトと勉強に費やし、サークルや校外活動はおろそかにしていました。
さて、日本の文系の就活システムの特徴ですが、試験の結果などよりも、横のつながりや社交性、コミュニケーション能力が重視されがちです。そのため、大学の成績は比較的良かった木下さんですが、内気に思える性格などが災いし、大学3年時の就職活動は、思うように進みません。
元々一橋を目指していた木下さんは、その3個ほどレベルの低い私立大学に、しかも一浪でしか受からなかったことに、やや学歴コンプレックスを感じておりました。
さらに、周りのゼミ生が就職を決めていく中、大学4年の夏になっても、木下さんは就職先が決まっていない状況となり、劣等感に拍車をかける形となります。
「なんで、あんな遊んでばかりのやつらが内定をもらい、まじめに勉強していた自分は会社に必要とされないんだ」と、憤りを感じます。
そんな憤怒と絶望に打ちひしがれていた木下さんですが、そもそも、就職するだけが大学卒業後の進路ではないんじゃないかと思いはじめます。まず、思い立ったのは国内大学院への進学です。東大、京大、一橋など大学院に合格すれば、自分の学歴コンプレックスも解消されるんじゃないか、と密かに期待を抱きます。
ただ、日本では、国内の文系の大学院進学は、中々進学に見合ったものではないといわれています。
そんな中、木下さんは、海外の大学院に目を付けます。語学も学べ、一石二鳥です。
調べてみると、ドイツの大学院などは、GDPが3.0以上あれば、ほぼどこかの大学院に合格できる確率が高く、木下さんの場合、すでに大学学部時代の成績は3.1と、この要件を満たしています。
ヨーロッパで知名度も高く、経済的も安定したドイツの大学院を卒業すれば、就活でも引く手あまたで、ゼミ生を見返せるのではないか、という希望が芽生えます。
ただし、留学に際して一つ問題がありました。木下さんの実家は裕福ではなく、あまり大きな資金が捻出できません。ドイツの大学院に入学するためには、ドイツ語が要件に設定されていることが多く、そのためには、ドイツの語学コースや、語学学校に通う必要があり、まとまった資金が必要になります。
かといって、木下さんも学生のため、そんな大きな貯金はなく、親との相談の結果、大学卒業後、実家に住みながら半年バイトし80万円を貯め、それをもとに語学留学の生活費を確保、代わりに、語学学校へ払う60万円分は親が出してくれる、という条件で合意します。
そんな危うい資金計画を立てながら、木下さんは大学を卒業、東北の実家に帰り、時給900円の居酒屋のバイトを始めます。
語学留学の開始!
半年のバイト期間を経て、木下さんの通帳には80万円の貯金ができました。
ドイツでは最も寒い月に数えられる、日本での家族とのささやかな正月を楽しんだ後、1月、約束通り、木下さんはドイツの中では比較的物価の安いドレスデンに引っ越し、語学学校に通い始めます。
木下さんが時給900円のバイトをしながら貯めたなけなしの80万円のうち、ドイツまでの飛行機代、スーツケースなど小物の準備などで、計10万円があっという間に消え飛びました。
「あと残り70万円か、慎重にいかないと・・」
木下さんの予定では、年に6回あるドイツ語TestDaf試験のうち、半年後の7月か、念のため、その次の9月にもう一度受け、どちらかで合格すればよいと考えていました。
最悪、8か月ドイツに滞在すると考えると、使用できる貯金は、月あたり700€です。家賃が300€、月々の保険料で80€、固定費で消えていくことを考えると、月当たり自由にできる費用は320€、つまり、一日10€(1300円程度)での生活が要されます。
それゆえ、木下さんの語学留学は、節約留学でもあり、いかにして費用を切り詰めて、ドイツ語を勉強するか、というところに頭を使います。
ドイツは物価の高い国のように喧伝されていますが、実際には、野菜や果物類は日本よりも安く、ジャガイモ、玉ねぎ辺りはキロ100円の世界です。また、冷凍食品も1パック2€で買えるので、一日の食費10€以下、というのは、十分に実現可能な数字でした。
それゆえ、切り詰められるものはすべて切り詰めます。語学学校へは徒歩40分くらいの距離でしたが、毎日歩いていくことにします(月のバスの定期を買うと1万円程度)。移動の時間がもったいないため、移動しながら、ドイツ語の単語を復唱します。
語学学校の昼休みには、コーヒーや昼食を楽しむ時間があります。同級生は学食や中華料理屋へ行きますが、木下さんは家で作ったサンドイッチと水筒を持ってきて、一人で公園のベンチで食べる生活を続けます。
会社の経費で語学学校に来ている、という日本人に会うと、木下さんは嫉妬心から憎むようになります。「俺は自分で貯めた金で来ているんだぞ!」
と、言葉には出しませんが、家ではぶつぶつと文句をいい、一食100円程度のジャガイモバターに齧り付きます。
試験のプレッシャーと募る不安
資金面の不安とは裏腹に、ドイツ語の学習のほうは至って順調でした。木下さんは大学の第二外国語でドイツ語を受講しているため、ドイツ語の勉強はこれが初めてではありません。
文法も、バイト時代に独学で参考書を終えたため、しっかりと身についており、4月の初めには、すでにB2レベルに到達していました。
「これなら、予定より早く語学要件を達成できるかもしれない」
大学に受かってしまえば、奨学金など、いくらでも金銭を工面する方法はあります。この、学生でもなく、社会人でもない、ただ語学学校に通っている浪人という立場を、木下さんは一刻も早く抜け出したい気持ちでいっぱいです。
ところが、このB2レベルとは、ドイツ語学習者にとって鬼門と言われるところで、修学すべき単語や文法の量が、B1レベルとは比較にならないほど増えるのです。
やがて夏が来ました。涼しいレストランに行く余裕もないため、木下さんは汗だくで、地元の図書館でドイツ語の自習を行います。周りの留学生は、海に行ったり、山へバカンスに行ったりと、語学学校の夏休みを謳歌しますが、木下さんにはそんな金銭面の余裕はありません。
6月、2か月後に控えたTestDaf試験の募集が開始されます。試験費用は200€と高額で、これに、木下さんはなけなしの貯金をはたいて応募します。
「これはなんとしても一発で受かりたい・・」
そんな木下さんの命運を占う、ドイツ語試験が7月に開催されました。
躓く試験、負の連鎖
なけなしの貯金をはたいて応募したドイツ語試験の結果はというと、大学合格要件にわずか1点足りない、3×4×4×4というものでした(多くの大学院でもとめられるのは、すべての科目で4点を充足するも4×4と呼ばれるもの)。
「あと1点だった!」
と、木下さんの心情は悔しさに満たされます。この試験結果の発表までの1か月、木下さんはいろいろな妄想に胸を膨らませていました。ドイツの大学院に合格し、フェイスブックでゼミ生に自慢し、ドイツ人の彼女を作って、今まで自分を見下したチャラ男たちに見せびらかせてやろう、と。
とはいえ、まだチャンスはあります。あと2か月後には次の試験があるのです。
そう前向きに思う一方、木下さんには不安もありました。
「もし、次も不合格ならどうしよう」
上述の通り、木下さんの準備してきた資金は多くありません。これで、仮に次の試験に落ちたら、さらに2か月後の試験を受験するだけの資金的余裕はありません。
日本でも試験自体は受けられるのですが、日本に帰ってきてしまうと、ドイツ語の向上どころか、話す機会がなくなり、永遠にドイツ語試験をパスするチャンスは失われてしまいそうです。そのため、何が何でも、その次の日程で合格する必要があったのです。
木下さんは夜な夜な、試験のプレッシャーにおびえるようになりました。同級生のトルコ人に勧められ、初めてマリファナに手を出したのもこの頃です。
二度目の不合格、解約した父の生命保険
そんな緊張と不安の入り混じった精神状況で受けた二度目の試験の結果は惨憺たるものでした。
大学受験の時も、本番当日に緊張してしまい、木下さんは結果が出ず、第一志望の一橋大学に合格できませんでしたが、そのときと全く同じ悪夢が起こります。体は震え、試験中に2度も鉛筆を落とします。
試験結果は、前回同様、合格に1点だけ足りないものでした。
すでに、限界まで切り詰めた貯金も尽きようとしており、次の試験を受けるための費用がありません。そんな中、木下さんは泣きながら両親に電話をします。
「合格したらどんな親孝行もします、どうか最後に20万円だけ貸してください」
木下さんの父親は、今まで積み立てていた生命保険を解約、この息子の最後の望みを叶える費用を捻出します。
もはや、最後の失敗は許されません。11月に試験を受け、その試験の結果を待つだけの生活費がないため、試験の翌日の飛行機で日本に帰国することにします。
すでにドイツに来てから丸一年が経過しようとしていました。最後の試験当日、雪が降りましたが、バス代の払えない木下さんは、雪の中を1時間かけ、歩いて試験会場までたどり着きます。
最後の試験と、夢の終わり
11月の最後の試験が終わり、うつろな気持ちで木下さんは試験会場を後にします。すでに、街はクリスマスの準備をはじめ、道にはクリスマスマーケットが並び、陽気な音楽を流しています。
木下さんにとって、考えてみれば、これが初めてドイツらしい文化を味わった唯一のひと時でした。あとは、浮ついた思い出も何もなく、記憶にあるのは、ただひたすら眺め続けた語学学校の壁と、ホームステイ先の机の風景です。
ホームステイ先を引き払い、Düsseldorf空港で成田行きの飛行機を待つとき、木下さんの目に涙が浮かびました。これで、受かっていようが、落ちていようが、もうドイツ語を勉強する必要がない、という安堵の涙です。
1か月後、東北の実家に届いた試験の結果通知が届きます。本人のうすうす予感していた通り、無情にも、それは不合格を伝えるものでした。
1浪し、人より一年遅く大学に入り、大学卒業後は半年バイトし、ドイツで1年語学試験に費やしたため、すでに木下さんは25歳になっていました。高校の同級生は、すでに就職して3年目を迎えようとしている年齢です。
試験に3度落ちながらも、全力を尽くした木下さんを、家族は温かく迎えました。ドイツの大学院に合格し、周囲を見返す、という目標は叶いませんでしたが、その後、木下さんは、家族のサポートもあり、地元でドイツやヨーロッパとゆかりのあるフォワーダーの職種を受け、見事内定を勝ち取ります。
大学院受験はもう懲りたという木下さんですが、今度は、会社に勤めながらヨーロッパ勤務を果たし、生かせなかったドイツ語を今度は生かしたい、と志を語っています。