【1812】ナポレオンのロシア遠征:戦争の変化がもたらした戦略的失敗とは

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1812年、ナポレオンの大号令の下、60万人とも冠されるフランスの大陸軍(Grande Armée)が、大陸封鎖令を破ったロシア帝国軍に懲罰を加えるべく遠征を開始します。

意気揚々とパリをたった軍人、民間人を含むこの前代未聞の大軍勢は、ロシアの凍てつく国土で、悲惨の一言に終始する大敗を喫し、やがてナポレオンの没落に結びついていきます。

今回は、日本ではあまりなじみのない、ナポレオンのロシア遠征と、ナポレオンの敗因、苛烈を極めたロシア軍の報復、などについて、文献をもとに書き綴っていきたいと思います。

大陸封鎖令の誤算

1803年、ナポレオン戦争の開始以降、フランス軍は連戦戦争、ヨーロッパ大陸の並み居る帝国軍を粉砕し、ヨーロッパに確固たる領土と同盟国を確保していきます。

ところが、いかにフランス軍の士気が高く、ナポレオンをはじめとする将軍たちの能力が高くとも、どうしても屈服させることのできない国がありました。当時の世界の7つの海を席巻する、海上帝国の名を称するにふさわしい「大英帝国」です。

トラファルガーの海戦で手痛い敗北をうけたナポレオンは、イギリスを軍事的に征服する道をあきらめ、経済的に衰弱させ、むこうから根をあげさせる作戦に出ます。それが、他のヨーロッパ同盟国にもイギリスとの貿易を禁じるという「大陸封鎖令」です。

ロシアも、他のヨーロッパ諸国同様、このナポレオンのイギリス征服の野望に巻き込まれ、「大陸封鎖令」に参加したような形です。1807年、フリートラントの戦いで敗れ、当時敗戦国となったロシア帝国に、ナポレオンはこの「大陸封鎖令に参加する」ことを条件に、プロイセンのような領土割譲も賠償金請求もしないことを約束したのです。

さて、このロシア側にとっても美味しそうに見えていた大陸封鎖令への参加ですが、年がたつにつれ、次第に問題点が浮き彫りになってきます。ロシアでは、まず商人たちがイギリスとの貿易を禁止されたために損害を被り、国内の非難の声が高まっていきます。

90%の農奴と10%の支配階級、という歪な社会構造で成り立つ当時のロシア帝国は、皇帝と言えども、貿易を生業とする支配階級たちの意見を聞かないと、帝国そのものの屋台骨を揺るがすことになります。

それゆえ、とうとう国内の非難に耐え兼ねる形で、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、ナポレオンとの約束を破り、大陸封鎖令の破棄を決定しました。

この、大陸封鎖令の破棄に対して、ナポレオンは当然のことながら激怒。懲罰目的で大軍をロシアへ派遣し、再びロシアをイギリス包囲網の一角に加えんと息巻いて、この1812年ロシア戦役を引き起こします。

ロシア戦役の発令

当時、ナポレオンが動員した軍隊は、総勢で60万といわれ、フランス軍だけでなく、プロイセンやポーランド軍、中には5万人とも言われる市民、商人や床屋、パン屋や洗濯屋、売春婦なども含み、まるで一つの中都市が移動を続けるようなものでした。

ロシアと言えば冬のイメージがつきものですが、1812年6月に始まったナポレオンの大遠征は、灼熱の大地の中をいく行軍です。砂嵐が巻き起こり、時に数日のうちに行軍を支える馬車を奪い去りました。

夏の気温は36度、日中は日が容赦なく照り、人々や荷駄から水分を失わせます。

今までの華々しい戦歴を、ナポレオンは「迅速な行軍」によって彩ってきました。今回も、同様にロシア軍の準備が整う前に叩きのめすつもりで、強行軍をしき、兵士たちの疲労は募っていきました。

ナポレオンのロシア国内部の行軍は、6月にWilna, 7月にWitebsk, そして8月にはSmolenskと続きますが、すでにこの段階で歩兵の靴は擦り切れ、中には裸足でついてくるような状況でした。

医師が足りず、衰弱や病気などで、この行程だけでもすでに多くのフランス軍が行軍から脱落しています。

この戦争における、ナポレオンの狙いは、ロシア軍をどこかの戦場で徹底的に叩きのめし、ロシア軍を相手に都合の良い講和を結ぶことでした。

ところが、ロシアの荒野を行けども行けども、見えてくるのは無人の野とロシア軍の焦土作戦によって破壊された街並みばかりで、一向にナポレオン軍はロシア軍との決戦を行えずにいます。

Smolenskというロシアの中都市近郊に達してようやく、この都市を守ろうとするロシア軍との小競り合いが始まります。このロシアの守備隊をナポレオンは一蹴しますが、衰弱し始めていたフランス軍の損害も軽重ではなく、Smolensk入城時には、戦闘可能なフランス軍の数は18万人を下回っていました。

Smolenskという、中都市に入城すると、ナポレオンはここで補給が行えるものかと期待していましたが、すでに町はもぬけの殻。大陸軍数十万人の喉の渇きを潤す水源も、食料も、不足している有様でした。

冬はまだ来ていません。フランス軍の地獄はまだ始まったばかりです。

モスクワへの道:バグラチオンの焦土作戦

フランス軍がいかにロシア兵を蹴散らし、村々や都市を奪っても、町はすでにロシア軍によって破壊されているため、フランス軍は満足な休憩も補給も行えません。

ロシア軍は、東へ東へと退却を続け、フランス軍はそれを追っていきますが、ロシア軍は退却の最中にすべての村々を破壊し、フランス軍には水一滴、麦の一穂も与えない、自分の国を破壊しつくすという「焦土作戦」に出ます。フランス軍は満足な補給が行えないまま、ロシア軍との華々しい決戦を夢見て、ずるずると、ロシアの深層部に引きずり込まれていきます。

「ヨーロッパの戦争の形態」が、このナポレオン戦争を期に、大きく変化したといわれています。

それまでの戦争は、王族同士のなれ合いのようなもので、戦闘はそれぞれの国の雇った傭兵のあいだでなされ、愛国心というよりも、個々の功名心を満たすために行われていました。それゆえ、大規模な全滅、殲滅、というようなことも起こりえず、領土のとったとられたという、ぬるま湯に浸かったような戦争が長らく続けられていました。

ところが、こと、フランス革命が勃発するに至り、兵士とイデオロギーの質は様変わりします。革命後のフランス軍を構成するのは、平和ボケした貴族ではなく、愛国心に燃える革命軍です。

皮肉にも、フランス軍の専売特許であった、愛国心と士気の高さは、ナポレオン戦争がフランスによる他国の侵略戦争に様変わりするに至り、ロシアやプロイセン等、他国の兵隊の愛国感情を芽生えさせる形になっていきます。

すでに戦争の形態は、貴族王族の馴れ合いから、民族間の生存をかけた殺戮へと変貌を遂げました。

9月、すでに朝夕の温度が冷え込み、大地がうっすらと白みはじめるころ、フランス軍はモスクワ近郊にたどり着きます。ここにきてようやく、モスクワを守備するロシア兵とフランス軍の間で血みどろの戦闘が行われました。「ボロジノの戦い」です。

ボロジノの戦いとモスクワ入城

ボロジノの戦いの指揮をとるのは、ロシアの英雄クトゥーゾフとバグラチオンです。第二次世界大戦時、ドイツ軍の侵略をうけたスターリンは、その名前にあやかって、バグラチオン作戦という戦略を実行、ドイツをソ連領から追いやりました。

救国の英雄バグラチオン

結果だけ切り取ると、ボロジノの戦いは、フランス軍にとって、戦術的な勝利でありつつも、戦略的には敗北でした。

ナポレオンは、目前のロシア軍を一蹴し、モスクワへ入城する、という戦術的目的を果たすも、ロシア軍を壊滅させ、再起不能に叩きのめす、という戦略的目的が果たせず、クトゥーゾフを含めロシアの将軍たちを逃します(バグラチオンは戦傷死)。

ともあれ、ボロジノの戦いに勝利したナポレオンは、すでに戦争の終わりを予想していました。これにより、モスクワはフランス軍の手に落ちたのです。

モスクワに入城したナポレオンは、意気揚々とアレクサンドル1世からの和睦の使者を待ちます。すでに、敵国の首都が陥落しました、本来であれば、これ以上戦争を続ける意味も、戦闘継続能力も、敗北側にはないはずです。

ところが、待てど暮らせど、ロシア側からの講和の申し出は来ません。フランス軍のモスクワ入城の夜、市内で大規模な火災が巻き起こりました。ロシアのスパイによって放たれた火の手は、モスクワ中に燃え広がり、市内の3分の2が灰塵と化します。

ナポレオンのその後の運命を分けたのは、このモスクワで過ごした無為な時間だったといわれています。ナポレオンは、来ることの無いロシアからの和睦の申し出を、瓦礫の山と化したモスクワで気長に待ちました。才気溌溂とした、若きころのナポレオンでは、このような思考停止には至らなかったでしょう。

この間、フランス軍の指揮系統は乱れています、モスクワ市内ではフランス軍による、レイプや略奪が横行し、多くのロシア人が犠牲となりました。ところが、すでに補給の付きかけているフランス軍には、彼らの軍紀を指揮する術はありません。

ナポレオンは結局、迫りくる冬を前に、モスクワで無駄な2週間を過ごします。初雪がロシアの広大な大地を覆い始めるころ、ナポレオンはようやく撤退を決意しました。ここから、補給の尽きたフランス軍と、血に飢えたコサック騎兵の繰り広げる、世界史上稀にみる凄惨な追撃戦がはじまります。

続き:ナポレオンのロシア戦役:凄惨を極めたフランス軍の撤退戦とその結末