こんにちはタケルです。
本日もこのブログにお越し頂きありがとうございます。
前回はヒトラーが愛したユダヤ人少女について書きました。
(前回のブログはこちらから⇨)
今回は前回の記事でも少し触れた「水晶の夜」について少し書いていきたいと思います。
皆さんはこの事件のことを知っていますか?
水晶の夜とそのきっかけ:なぜドイツ大使館職員は殺されたのか?
私は調べて初めて知ったのですが、この水晶の夜を転換点にしてナチスドイツはユダヤ人への迫害を加速させていく、言わばホロコーストのきっかけとなったと言っても過言ではないナチスのユダヤ人迫害の歴史において極めて重要な事件なのです。
この水晶の夜は1938年11月7日、ポーランド系ユダヤ人の青年が留学先のパリにあるドイツ大使館の館員を銃撃し殺害した事件が発端となっていますが、実はこの事件には、あまり人に知られていない歴史があったのです。
水晶の夜に至るまで
まずは水晶の夜が起きた背景を簡単にお伝えします。
前回のブログでもお伝えしましたが、ユダヤ人の迫害がドイツ国内で加速したのは1933年1月にヒトラー内閣が誕生し、同年早々に起きたドイツ国会議事堂放火事件をきっかけにナチスが政敵を拘束する力を付けて急速に独裁力を拡大していったところから始まります。
反ユダヤ主義を掲げ、独裁力を拡大したナチスは1935年のニュルンベルク法に制定よるユダヤ人の二流市民化(=公民権の剥奪)を進めるなど、ドイツ国内のユダヤ人に対する迫害を加速させていきました。
そんな中、ドイツ在住のユダヤ系ポーランド人は比較的迫害を逃れていました。
迫害を逃れられた理由としてはドイツとポーランドが国交を結んでいた為、ナチスは彼らに正統な権利を与える必要があり、ポーランドのパスポートを所持しているユダヤ人は在住外国人として主張できる為、ゲシュタポ(ドイツ秘密国家警察)が取り締まれない状況が続きました。
同時にポーランド国内ではドイツと同じく反ユダヤ主義が加熱しており、1936年から37年にかけて流血を伴う反ユダヤ暴動が各地で起きていました。
ポーランド政府は暴動を抑える為国内のユダヤ人を減らすことを目的として、ユダヤ人の国外退去を奨励しました。
そうした背景もあり、ポーランドからドイツに移動するユダヤ人も増えるなど、段々とドイツ在住ユダヤ人の中で、ユダヤ系ポーランド人が大きな勢力となっていきました。
一方、ドイツでのユダヤ人迫害も更に強くなっていく中、ドイツからのポーランドへのユダヤ人再流入を危惧したポーランド政府は、1938年10月6日に全てのポーランド旅券(パスポート)には検査済みの認印が必要であるとする新しい旅券法を布告し、国外在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効化しようとしました。
このポーランド政府の対応に激怒したナチスは正式に旅券法が施行される1938年10月30日よりも前にポーランド系ユダヤ人計1万7000人をポーランドに追放しようとしましたが、ポーランド政府も国境を閉じ、彼らの入国を拒否しました。
これにより、ドイツとポーランドの国境の無法地帯に1万7000人のポーランド系ユダヤ人は無理矢理閉じ込められることになりました。
実はこの国境に閉じ込められたポーランド系ユダヤ人の中に、1938年11月7日、パリのドイツ大使館の館員を銃撃し殺害したポーランド系ユダヤ人の青年の家族が居たのです。
家族がナチスから酷い迫害を受けていることをパリで知った青年はドイツ人を殺すことで世間にドイツにおけるユダヤ人の惨状を知ってもらう為犯行に及びます。
The pretext for the pogroms was the shooting in Paris on November 7 of the German diplomat Ernst vom Rath by a Polish-Jewish student, Herschel Grynszpan.
私訳:
ポグロム(=水晶の夜)実行の口実は、11月7日にパリで行われた、ポーランド系ユダヤ人の学生、ヘルシェル・グリュンシュパンによるドイツの外交官エルンスト・フォム・ラスへの銃撃であった。
水晶の夜と名付けられた暴動
その犯行を知ったナチスはこれを口実に、9日と10日の二日間にかけてドイツ国内で大規模な反ユダヤ暴動を行います。
また、ヒトラーは9日にラスの死亡を部下から聞かされた時、暗に自発的な暴動をナチスが起こすようにと指示をします。(つまり、自分の指示ではないようにしたのです。)
News of Rath’s death on November 9 reached Adolf Hitler in Munich, Germany, where he was celebrating the anniversary of the abortive 1923 Beer Hall Putsch. There, Minister of Propaganda Joseph Goebbels, after conferring with Hitler, harangued a gathering of old storm troopers, urging violent reprisals staged to appear as “spontaneous demonstrations.” Telephone orders from Munich triggered pogroms throughout Germany, which then included Austria.
私訳:
11月9日のラスの死のニュースは、ドイツのミュンヘンにいたアドルフヒトラーに届いている。
その時ヒトラーは、1923年のミュンヘン一揆の記念日を祝っていたのだ。
プロパガンダのヨーゼフ・ゲッベルス大臣は、ヒトラーと協議した後、古い突撃歩兵の集まりを呼び起こし、「自発的なデモ」として登場するように上演された暴力的な報復を促した。
これにより、オーストリアを含むドイツ全土でポグロムを引き起こしたのだった。
この暴動が水晶の夜です。
結果として、フランスとの国境に近いドイツ西部を中心に、177のシナゴーグと7500のユダヤ人商店や企業が破壊され、91人のユダヤ人が殺害されました。
更にドイツ警察は被害者であった3万人ものユダヤ人を逮捕し、各強制収容所(ダッハウ,ブーヘンヴァルト,ザクセンハウゼン)を拡張しそこに閉じ込めました。
11月11日、ナチス党プロパガンダ大臣のケッペルはヘルシェルの襲撃に対する暴動(=水晶の夜)を「卑劣で野蛮なユダヤ人に対するドイツ国民の正統な怒りだ」とし、正当化します。
また、壊された企業や商店に対して、ナチスは世界から見たドイツの損害保険の信用を考え、損害賠償請求に対しては外国籍のユダヤ人からのもののみ対応し、ドイツ国籍のユダヤ人からの請求は対応しなかったようです。
ちなみに、「水晶の夜」という名称は、この暴動によって破壊された商店や企業、家などのガラスが月明かりに照らされて水晶のように煌いていたとしてナチスのヨーゼフ・ゲッベルス プロパガンダ大臣が命名したものですが、その由来となったガラスの被害だけで、ユダヤ人の損害額は600万ライヒスマルクに及んでいました。
ドイツ大使館館員襲撃の真実
さて、このような苛烈な暴動を引き起こした水晶の夜でしたが、この暴動は上でも説明したドイツ大使館職員銃撃事件を利用しています。
その銃撃事件はそもそもなぜ起きたのでしょうか?
上記でお伝えした経緯を踏まえると、ナチスがドイツにいるポーランド系ユダヤ人の国外追放によって自分の家族が受けた迫害に憤りを感じた17歳の青年が、自分が潜伏していたパリで、報復の為ドイツ人大使館館員を銃撃したという風に見えます。
しかし、実はこの話は教科書に載っていないもっと深いエピソードがあったのです。
この青年はさも義憤に駆られて面識の無い大使館職員を襲撃したかのように思われますが、実はこの二人は面識があったのです。
つまり、この事件は顔見知りの犯行だったのです。
Eine umstrittene Theorie besagt, dass Herschel Grynszpan und Ernst vom Rath eine homosexuelle Beziehung hatten und sich in einem entsprechenden Lokal in Paris kennenlernten. Der Diplomat soll Herschel versprochen haben, ihm für seine sexuellen Dienste Papiere für eine Wiedereinreise nach Deutschland zu besorgen. Womöglich erhoffte sich Herschel auch Hilfe für seine Familie. Ernst vom Rath hielt seine Versprechen aber nicht ein, daher soll Herschel ihn erst erpresst und dann auf ihn geschossen haben.
Planet wissen: Herschel Grynszpan – der Attentäter
私訳:
物議を醸す理論は、ヘルシェル・グリュンシュパンとエルンスト・フォム・ラスが同性愛関係にあり、パリの同性愛者向けのパブで出会ったというものです。ラス外交官はヘルシェルに、自分に対して性的サービスを提供する代わりにドイツに再入国するための書類を手配すると約束したと言われています。おそらくヘルシェルは彼の家族の助け(ドイツへの再入国許可)についてもこの外交官に対して望んでいたのでしょう。しかし、エルンスト・フォム・ラスは約束を守らなかったので、ヘルシェルは最初に彼を脅迫し、次に彼を撃ったと言われています。
エルンスト・フォム・ラスはナチスによって治療を受けましたが、残念ながら撃たれた二日後の11月9日に亡くなっています。
まとめ
当時を生きていないので、実際弾圧や暴動がどれほどのものだったのかは全て理解することは難しいのかもしれません。
私自身も海外で生活をしていて、立場の弱い生活をしていますので、ヘルシェルのドイツの再入国許可に対する思い、また恐らくですがその為に性的サービスの提供を受け入れたであろう、彼の覚悟や、家族が強いられた差別や弾圧に対する憤りが結果的にナチスにユダヤ人を迫害、弾圧する為に利用されてしまったことはとても悲しく思います。
本日はここまでにします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。