反面教師という言葉の示す通り、人の過ちは時として成功例よりもよいお手本になります。きらびやかなイメージのその裏で、海外留学という選択肢は、時に人のキャリアやその後の人生のレールを大きく脱線させます。
今回は、オーストリア留学で単位が取れず、疲労困憊の末に日本に帰国した加賀美さん(30歳)のお話です。
中堅メーカーからオーストリア留学
加賀美さんは神奈川の高校を卒業後、2浪して慶応の商学部に入学、24歳で卒業しました。
その後新卒で、業界一番手とは言えないまでも、いわゆる中堅老舗メーカーのカタログ製作部門に配属、大手広告代理店やデザイナーなどと折衝を行う、忙しいながらやりがいのある仕事を満喫していました。
加賀美さんに転機が訪れたのは、入社から4年が経過してようとしていた29歳のときのことです。たまたま仕事で訪れたオーストリア、ウィーンの美しい街並みに心を惹かれます。
「自分も一度でいいから、こんな町で生活してみたい」
30歳近くまで仕事一筋で生きてきて、社会人になってからは、彼女を作る暇も、海外旅行する機会さえほとんどなかった加賀美さんにとって、幻想的な冬のウィーンは、あまりにも魅力的に映りました。
ちょうどそのころ、仕事のほうも忙しく、毎日残業を続けており、私生活のほうもうまくいっていなかったため、乾ききった加賀美さんの心に、海外生活の誘惑は、まるで砂漠のオアシスのように照り映えます。
調べてみると、オーストリア留学のためにはドイツ語要件を満たせばよく、長年大手での仕事を続けてきた加賀美さんには、そのための資金の余裕も十分にありました。
せっかくだし、30歳を手前に心機一転、オーストリアの大学院に通って、卒業後はそのまま現地で就職しよう。そう考えると、大学院受験のため、ウィーンにある語学学校を早速予約します。こうして、ビジネスマンとして華々しい職歴を築いていた加賀美さんは、いったん日本でのキャリアを中座し、単身、ウィーンにわたる決意をします。
とんとん拍子で進む大学院受験
加賀美さんにとって、ドイツ語を勉強するのはこれが初めてではありません。大学時代、第二外国語でドイツ語を履修しており、独学で独検2級に合格したことがありました。
そのため、ブランクがあったものの、少し勉強すると昔の勘を取り戻します。語学留学からわずか7か月にして、オーストリアの大学院に入学する試験要件をクリアしてしまいました。
また、英語も、仕事でそこそこ使用していた経験があり、TOEIC基準で800点と、大学院受験には十分な語学力を備えていました。加えて、日系中堅企業での4年に及ぶビジネス歴は、オーストリアの名門大学に合格するに足る経歴です。
いくつかの大学院からオファーをもらった加賀美さんですが、最終的に、一番知名度も高く、大学ランキングの良いウィーンの大学院を選択しました。
こうして、加賀美さんは、29歳にして、オーストリアでも名の知れた、誰もが羨む名門大学のBusiness学科に入学することとなります。
絶望的な情報不足
新入生としての新学期を迎えた4月、大学側の催したオリエンテーションがありました。加賀美さんも、そこで日本での大学生活のように、クラスの人とのコミュニケーションや、卒業までの単位認定の仕組みなどの説明がされるものと期待していました。
ところが、蓋を開けてみると、オリエンテーションは30分程度、学部長による簡単な紹介と、祝辞が述べられただけで、試験や学校の仕組みについては、特になにも教えられることがありませんでした。
また、クラスの人たちも、すでに自分以外でコミュニティができています。アジア人は加賀美さん一人で、だれか声をかけてくれるものと期待しましたが、だれも話しかけてくれる人はありませんでした。
後から知った話によると、通常、オーストリアの大学・大学院では、入学前にフェイスブックなどを通じて飲み会などが催され、入学の時にはいくつかのコミュニティができあがってしまうようです。
また、これも後から知った話ですが、ゼミに登録する場合は、前の月から申し込んでおく必要があり、すでに学期が始まってしまうと、厳しいゼミしか残っていないとのことでした。
日本の大学システムに慣れている加賀美さんにとっては、オーストリアの大学院のシステムなど一切わかりません。パソコン上で受講科目を選択するようですが、そもそも、卒業までにどの科目を何単位取得したらいいかの情報収集から始めなくてはいけません。
知り合いも友達のいない加賀美さんは、頑張ってウェブ上の情報や学生相談課を駆使して、自分が受講しなくてはいけない科目を確認します。学生相談課は、語学学校とは違う早口のドイツ語でまくしたてられ、何を言っているのかわかりませんでしたが、恰好をつけてわかったふりをしてしまいます。
予習も復習もわからない、手探りの大学院生活
さて、加賀美さんの受講した科目は商学系のもので、一学期に5科目の受講が推奨されていました。一日2時間の授業が2回ほどで、計4時間くらいを講義に割きます。
加賀美さんが苦しんだのは、まず、語学の壁です。語学学校では問題なく、かつ入学要件である最低ラインも満たしたはずの加賀美さんのドイツ語ですが、教授や学生の話す独特のドイツ語についていけません。
学生課によると、試験対策は教授の言ったことをメモして、それを予習すれば大丈夫、とのことですが、そもそも、教授の言っていることの4割程度しか分かりませんし、試験範囲もどこで調べたらよいのか分かりません。
そうしたまま臨んだ最初の試験の成績は、悲惨そのものでした。オーストリアの単位システムでは、1が最高、4が最低で、それ以下は落第なのですが、4つの試験のうち、最低点である「4」を2つも取ってしまい。残る2つは落第です。
あとから知った話によると、学生課には、過去問が用意されており、頼めばコピーできるとのことです。ただ、そんな情報加賀美さんは知りませんし、だれも教えてくれる人はいませんでした。
オーストリアを含むDACHエリア、いわゆるドイツやスイスに共通するのですが、大学・大学院の試験が非常に難しく、かつ、卒業時の成績がかなりその後の人生に影響をします。
例えば、ある企業などでは募集要件に最低成績ライン2.0以上(GPA3.0以上)を設けており、すでに4.0を2つとってしまった加賀美さんは、最高点である1.0を少なくとも4回とらないと挽回できません(ちなみに、必修科目以外なら、他の良い成績の科目と成績をチェンジすることが可能なのですが、加賀美さんはそんなこと知りませんでした)。
さらに、加賀美さんの落第した2つの教科は、必修教科と呼ばれるもので、これに受からないと卒業ができず、試験を受験できるチャンスは全部で3回だけです。いい点でパスしなくては行けず、かつ、あと2回しかチャンスがない、という状況に加賀美さんは絶望しました。
落第生からの巻き返しを狙う・・ガリ勉日本人と呼ばれ
一科目につき推奨される自習時間は100時間とのことですが、加賀美さんはその2倍、つまり200時間を費やすことにしました。
1セメスター、つまり4ヵ月につき推奨される科目の数は5つ、つまり、5×200時間で、1000時間の自習をしなくてはいけません。一日に換算すると8時間を自習に費やさなくてはならず、一日の講義の時間4時間と合わせ、実に12時間を勉強のために割くこととなります。
元々、日本にいたときから、大学も浪人して合格するような、勉強の努力型だった加賀美さんは、とにかく人より多く勉強することで、センスの差を埋めることに長じていました。
教授のドイツ語はすべてが理解できなかったため、授業にこっそりレコーダーを持ち込み、夜な夜な教授の言動をスクリプト化し、それを丸暗記する、という作戦を取ります。同居人に飲み会に誘われても、加賀美さんは断り、自宅にこもって黙々と勉強を続けます。挙句の果てに、同居人からはガリ勉日本人と揶揄されるようになりました。
それでも、加賀美さんはどうにか大学院を卒業するため、死に物狂いで勉強します。その甲斐あって、2セメスター目の成績は平均すると2.7、1セメスター目の平均が4.0だったので、大きな進化です。
ただ、上述したように、最終評点は2.0以上であることが望ましいため、今までの悪い試験の成績を帳消しにするには、3セメスター目と4セメスター目で1.3という、現地のエリートでさえ難しい成績を取り続けなくてはいけない計算になります。
日本でサラリーマンをやっていたころよりも過酷なオーストリアの学生生活にほとほと嫌気がさし始めた加賀美さんですが、すでに1年半を費やし、オーストリアの大学院に滞在しています。ここでドロップアウトするわけにはいかない、と歯を食いしばります。
インターンへの応募と新しい生活の幕開け
さて、成績の問題と平行してもう一つ、加賀美さんを悩ませる問題があります。現地の企業での就業体験です。
もう一つ、ドイツやオーストリアでは、卒業前の学生の期間に、Praktikumと呼ばれる、インターン制度への参加が推奨されています。これをもって、企業側は学生に、ビジネスを行うに足る英語力やドイツ語力があるかをはかる試金石にし、青田刈りを行います。
年に何回かはビジネスでも英語を使用する機会のあった加賀美さんですが、本格的なビジネス英語やビジネスドイツ語の使用経験は乏しく、卒業後に現地で採用されるためには、どうにかこうしたPraktikumのチャンスを得たい気持ちがあります。
そのため、2セメスターの試験勉強の疲れもあった加賀美さんは、次のセメスターを休学し、インターンを行いたいと考えました。
ところが、20社ほど応募をしても、大学院の成績平均が3.1の加賀美さんをインターンといえども採用してくれる企業はウィーンではなかなか見つかりません。
門戸を広げ、他のヨーロッパ諸国でもインターンを募集している国を探したところ、ようやうく、チェコで、ドイツのマーケット拡大をもくろむIT企業の有給インターンを発見、面接に合格することができました。この時点で、加賀美さんは次のセメスターを休学し、プラハに滞在、1セメスターを悠々自適なインターン生活にあてることにしました。
この決断が、加賀美さんの命運を分けます。
ビザトラブル、認められない休学申請
ここで、加賀美さんの犯した致命的なミスとは、EU内のビザの仕組みを根本的に理解していなかったことです。
加賀美さんの持つ学生ビザは、あくまでオーストリアで学業目的で滞在することを許可するものであり、その他のEUの国での労働を許可するものではありません。
そのため、本来であればチェコで労働をする場合、加賀美さんは、別途労働ビザの申請が必要だったのですが、加賀美さんは全くそのことに気が回っておらず、また、受け入れる側も、加賀美さんがEU市民権を持っているものと思っていました。
すでにプラハでアパートも借り、オフィスで契約内容の確認をするにいたり、ようやく両者は、深刻なビザの問題に気が付きます。ビザがなければインターンは行えません。
チェコにおけるビザ申請のプロセスは簡易ではなく、アポスティーユの取り寄せなど含め、3ヵ月ほど見積もる必要があり、そこまで会社側は待てないと、加賀美さんに冷たく言い放ちます。
さらに悪いことに、加賀美さんはこのセメスター、休学申請を行うつもりでしたが、大学院側の決まりによると、休学申請には明確な理由が必要で、インターンを理由に休学を行う場合、そのための労働契約書のコピーを送付しなくてはいけないのです。
ビザの問題で結局、契約書を締結できなかった加賀美さんは、それと紐づくはずだった休学申請も行えません。つまり、この1セメスター、なんの試験も受験しないのに、丸々無駄にし、卒業までの単位認定に必要な単位数が増えてしまうのです(大学院によるが、加賀美さんの大学院では、4セメスター以上で卒業する場合、卒業に必要な単位数が増える仕組み)。
加賀美さんは慌ててウィーンに戻り、セメスターに復学する準備を行いますが、一度引き払ったアパートは、そう簡単にはまた見つかりません。なんとか、大学院から1時間ほど離れた狭い汚いアパートを見つけ、そこから、セメスターの途中から授業に通うこととしました。
神経衰弱、ノイローゼ・・・
そんなトラブルも手伝って、加賀美さんの3セメスター目の成績は3.0と、せっかく2セメスター目で持ち直した成績が、また悪化してしまいました。大学院側の開示している成績表によると、同級生の平均評点は1.9、最低は加賀美さんの3.1(GPA1.9)と、ずいぶん差が生まれています。
成績はもちろんですが、さらに悪いことに、必修科目を加賀美さんは最初のセメスターで落としているため、卒業までに再受験する必要があります。
ただ、その必修講義は、毎年冬セメスターにしか開講されないもので、ビザの問題でどたばたしていた加賀美さんは気づきませんでしたが、本来であればこの3セメスター目に、何が何でも合格しておかなくてはいけなかったのです(そうしないと、次の受験機会はまた1年後の5セメスター目となる)。
成績の悪化と、卒業までにパスしなくてはいけない試験の数を見て、加賀美さんは絶望しはじめます。
すでに、ウィーンに来て2年がたとうとしていましたが、毎日勉強漬けで、現地の友人を作る暇もなければ、旅行を楽しむ暇もなく、体重が増え、視力もどっと悪化したような気がします。
このころ、加賀美さんは一種のノイローゼになっていました。いくら勉強をしても頭に一切情報が入ってこず、それゆえ、さらに机に向かう、という、健康にも脳細胞にも悪そうな生活を続けます。
4セメスター目は、セメスターの途中で通学電車内での吐き気と食欲不振といった体調不良を訴え、病院通いを始めます。ここで診断書を提出、ようやく休学の認可が下りました(オーストリアの大学は、病気理由の休学には優しい)。
卒業までにクリアしなくてはいけない試験はあと3つ、そのすべてで最高評点をとっても、企業側の求める2.0には届きそうにありません。それに加え、卒論が控えており、教授とのコンタクトを開始しなくてはいけないのですが、試験に拘泥し、横とも縦ともつながりを増やせなかった加賀美さんは、教授とのつてもありません。
結局、休学のまま、加賀美さんは大学院に復帰することはありませんでした。2年半を費やして大学院に通った加賀美さんの最終学歴は、慶応商学部卒→オーストリアの大学院中退、という、逆学歴ロンダリングが発生した形で幕を下ろします。
加賀美さんの語学力と、日本での職歴があれば、ウィーンで就活すれば、現地の日系企業に内定がもらえたかもしれませんが、疲弊しきった加賀美さんにその気力はなく、日本に約3年ぶりに帰国します。
一度、キャリアのレールを外れた加賀美さんに対し、日本での就活の現実は冷酷でした。
29歳から32歳までの3年という、周りの元同期が出世し、結婚し、子供をもうけた時期、加賀美さんはウィーンで卒業もできなかった大学院の勉強にひたすらその身を捧げ、無為に貯金と時間を費やしていたのです。
前職の条件を満たせるような仕事条件のオファーはなく、数週間の転職活動の末、どうにか、海外のバイヤーとの折衝チャンスのある、中小企業の内定を得ることとなりました。
知名度も、給料も前職に比べがくっと下がったものの、お陰で、仕事上で英語やドイツ語を使用する頻度は増えたとのこと。とらえ方次第では、そこまで失敗ではないかもしれません。