【失敗体験2】ドイツ語学留学後に年収が半減した元証券マン

反面教師という言葉の示す通り、人の過ちは時として成功例よりもよいお手本になります。きらびやかなイメージのその裏で、海外留学という選択肢は、時に人のキャリアやその後の人生のレールを大きく脱線させます。

今回は、ドイツ語学留学で現地就職する夢を捨てた菊池さん(27歳)のお話です。

証券リテール営業からの退職

菊池さんは、私立文系大学を卒業後、中堅証券会社の国内営業に携わっていました。

金融業界と喧伝されてはいるものの、実際のところ、菊池さんの担当は飛び込み営業のような古風なスタイルが多く、帰宅も22時過ぎ、終電で帰るようなことも続き、精神的にも肉体的にもつらい日々が続いていました。

証券営業を通じ、もともと営業には向いていなかったと考え始めた菊池さんは、人になにかを売るのではなく、自分のペースでできるような仕事にあこがれるようになります。すなわち、翻訳家や、メーカーの購買部門など、語学を生かした業界に入りたいと考えました。

大学時代の専攻は経済学部で、特に英語の素養があったわけでもない菊池さんでしたが、昔からどことなく、ヨーロッパの文化に惹かれていた部分もあり、外国語を習得し、企業から求められる側になれば、こんな辛い営業をしなくても済むのではないかと思い始めます。

英語に関しては、菊池さんは自信がなく、また、競争率も多いことから、選択肢から除外しました。自分の金融の知識と結び付け、日本人にとってあまりメジャーではない、かつ大学時代に第二外国語として履修していたドイツ語を習得したらどうかと、菊池さんは希望を膨らませます。

「ドイツに1年ほど滞在すれば、ドイツ語がペラペラになって、いろんな企業から需要があるかもしれない。ドイツ語は英語ほどメジャーでないから、話せれば需要があるだろう」

そんなぼんやりとしたイメージのまま、菊池さんは3年勤めた会社を退職、ワーホリビザを取得すると、ドイツはデュッセルドルフにある語学学校に貯金の半分の100万円をつぎ込んで、半年間の語学コースを申し込みます。

半年語学学校に滞在、その後ドイツ語のスキルを活かして翻訳や通訳のバイトをしつつドイツ語を磨き、ワーホリ終了時期には現地で就職しよう、と考えました。

ドイツ語学学校の生活

3月末で退職した菊池さんは、その後2ヵ月ほど実家で休養し、5月末から語学学校生活をスタートさせました。

海外で暮らしたことのない菊池さんにとって、ドイツでの生活は新鮮そのものです。

語学学校からの帰り道、17時には仕事を終え、ビールを飲むサラリーマンの姿や、バルコニーでくつろぐ学生の姿を見かけるたび、菊池さんはドイツに来たことを改めて嬉しく思います。

「日本ではこんな生活無理だったが、ドイツ語が話せれば、こうした悠々自適な生活が待っているかもしれない」

そう思いながら、期待に胸躍らせ、毎日語学学校に通い、ドイツ語のテキストを開きます。

学校の先生や、クラスメートとの関係はいたって良好でした。すでに大学時代ドイツ語の素養があった菊池さんは、初心者と中級者の間であるB1レベルからスタートし、ロシア、スペイン、スイスなどからきた留学生に交じって授業を受けます。

語学学校の授業が終わると、週に1~2回、学校側でイベントを開催するため、友達付き合いの苦手な菊池さんも、そういった場へ行けば、いろいろな国の学生と仲良くすることができました。学校で知り合った可愛いフィンランド人と2人きりで携帯番号を交換するなど、心ときめくようなシチュエーションもありました。

語学学校開始から1か月、菊池さんはドイツに来たことを心底満足していました。

曖昧な目標と続かないモチベーション

ある時、学校の授業の一環で、みんながドイツ語を勉強する目標をドイツ語で発表する場面がありました。菊池さん以外の生徒がみな、「ドイツの大学に行く」「看護師なので、ドイツで働ける資格を取りたい」「助教授として、ドイツ語で授業をしなくてはいけない」など具体的な理由を述べていきます。

菊池さんにとって、ドイツ語の勉強は、あくまでそのままの意味しか持ちませんでした。ドイツ語を習得すれば、就職もいいところに内定できるでしょうし、みんなからも尊敬されるでしょう。「ドイツ語の勉強がしたいから、ドイツ語の勉強をしています」。

菊池さんがそういうと、クラスに笑いが起こります。「日本人はまじめだからね!」と先生がフォローしますが、ここで菊池さんは、自分のドイツ語を学ぶ目標設定があまりに漠然としすぎていたことに気づきます。

語学学校の上のクラスにいるようなモチベーションの高い生徒は、通常、なんらかの目標をもって滞在しています。例えば、ドイツであれば、大学入学の必要条件であるTestDafの受験や、看護師資格、配偶者ビザの取得などがそれにあたります。

ドイツ語を勉強さえしておけば、どこかの場面で役に立つだろう、と考えていた菊池さんには、そうした明確なマイルストーンが何一つありませんでした。それでも、菊池さんは「今までたくさん仕事したし、この1年はドイツ語を学びながらエンジョイする期間として割り切ろう。1年も滞在すれば、ドイツ語がペラペラになって、人生の選択肢が広がるだろう」と思っていました。

こうして、菊池さんは、若い受験生たちに交じって、特段の目標もなく語学学校に通い続けました。

周りとの意識のずれ

そんな試験に追いつめられているわけでもないため、菊池さんは休日を旅行などに費やします。夏の間、菊池さんは一人でイタリアやポーランド、スウェーデンなどに旅行し、ヨーロッパを堪能します。

菊池さんのフェイスブックのページには、こうしたヨーロッパ旅行の写真が並ぶようになります。日本にいる友達からは「うらやましい!」「私も今度行くからガイドしてね!」などのコメントが並び、菊池さんもまんざらでもありません。

語学学校生活が3ヵ月過ぎたころ、B1レベルからB2レベルに上がるためのドイツ語試験がありました。

語学学校の先生は「あくまで形式的なものだから、成績悪くても大丈夫!」と諭しますが、実際に菊池さんのこの試験でのスコアは、合格水準を大きく下回り、再びB1の授業をやり直す羽目になります。

後から知ったことですが、菊池さんが、語学学校の勉強だけで満足し、授業後は遊びに行ったりしているなか、同期の留学生たちは、自習室を使って夜まで勉強したり、一緒にミーティングをして、お互いのドイツ語の間違いをただす練習をしていたそうです。

こうして、今まで一緒のクラスだった意識の高い生徒たちはB2クラスへの昇格し、自分だけB1クラスに取り残され、下のクラスから上がってきた韓国人やトルコ人と一緒に、同じ内容の授業を繰り返すことになりました。

ちなみに、菊池さんが狙っていたフィンランド人の美人の女の子もB2に昇格し、しばらくして、理系大学受験を志す、同じクラスの台湾人と付き合い始めたことを知りました。

アルバイトの開始と、勉強に身が入らない日々

さて、語学学校に入ってから、ヨーロッパに住んでいるという嬉しさも手伝って、あちこち無計画に旅行していたため、次第に菊池さんの貯金は底をつき始めてきます。

当初の予定では、3~4か月も勉強すれば、日常会話くらいペラペラになるので、それで通訳などでバイトをし、その後の滞在費用にあてようかと思っていましたが、B2レベルの試験にすら落ちる菊池さんのレベルではどうしようもなく、最低時給で雇ってもらえる日本食レストランにいくつか応募し、ようやうアルバイトを見つけます。

アルバイトは、週に5回、月、火、水、金、土のシフトで入り、授業がある日は授業後の18時から22時までがっつり働き、ドイツ語の復習をする暇がありません。

Düsseldorfはリトルトーキョーと言われるほど日本人が多く、日本食レストランでは、日本語だけでも会話が通じてしまうほどです。

日本にいたころは、一応名の知れた証券会社の営業をやっていた菊池さんにとって、今更若い学生に交じって、日本食レストランのバイトをすることはいささかプライドに堪えました。

日本食レストランのお客はほとんどが日本人駐在員で、そうした彼らが背広を着て、ドイツ人の同僚たちと一緒に高い料理を頼んだり、ドイツ人の女性とデートしているのを見るたび、菊池さんはなんとも言えない劣等感に苛まれるようになります。

それでも、1年間の生活費を賄うため、アルバイトを続けざるを得ません。必然的に、ドイツ語の勉強には身が入らない日が続くことになります。

劣等感のはざまで

今までは毎日遅刻せず通っていた語学学校でしたが、バイトを始めてからは、遅刻が目立つようになり、やがて欠席もするようになりました。それでも、さすがに無資格ではまずいと思い、バイトと勉強を両立させ、死ぬ気で語学学校の昇級試験に臨み、どうにかB2レベルのクラスに滑り込みます。

そうこうするうちに、菊池さんの語学学校の契約期間である半年が過ぎようとしていました。それが終わっても、あと半年はドイツに滞在することが可能ですが、語学学校を卒業すると同時に、学校の手配してくれていたホームステイ先を退出しなくてはいけなくなります。

バイトに明け暮れながら菊池さんは、空いた時間を使って引っ越し先を探し始めますが、学生でもなく、企業勤めもしていない、つまり社会的な信用がない菊池さんに家を貸してくれる人は多くありません。

いくつかのフラットに応募し、面接を行いますが(ドイツの場合、入居前に同居人による面接があり、断られることも少なくない)、英語のできない菊池さんを受け入れてくれるところは見つかりません。

ようやく見つけたのは、バイト先から電車と徒歩で1時間ほど離れた不便な国際共同住宅で、言葉の通じない黒人、南米人に交じった共同生活がスタートしました。

ドイツ渡航からすでに半年が過ぎ去ろうとしていましたが、時間のほとんどをバイトに費やしていた菊池さんには、ドイツ語の向上は芳しくありません。ドイツ語で早口でオーダーされると、何を言っているかわからず、間違った注文を届け、年下のリーダーに怒られることもありました。

この時期になり、バイト以外の正社員も見つけようと、いくつかドイツ企業、日系企業に応募するも、英語ができず、かつドイツ語もビジネス経験のない菊池さんを雇ってくれるところはなく、履歴書の返事すら返ってきませんでした。

最後の望みをもって、転職エージェントにもコンタクトしてみますが、菊池さんの「ドイツ語B2レベル」と書かれた履歴書を見ていろいろと質問します。

「このB2っていうのは、何か試験に合格したの?」

「はい、語学学校で、B2レベルの試験に合格しました」

「んー公式試験じゃないってことだと、難しいかもね。ビジネスで使用した経験もないし。一応、希望にあうようなところがあったら紹介します」

それっきり、エージェントからの連絡はなく、菊池さんの、日本で培った証券営業のノウハウも、語学学校の内部試験のB2の資格も、ドイツにおける就活ではなんら全く生かされることなく、結局、日銭を稼ぐため、バイト先と共同住宅を往復する日々が続きます。

一時的に日本人コミュニティに参加してみたこともありましたが、現地駐在員や交換留学生と比べて自分の境遇が惨めに思え、1回顔を出しただけで、二度と現れることはありませんでした。

渡航から9ヵ月目、精神的にも肉体的にも疲弊した菊池さんは、周囲がクリスマスや新年の準備で家族や友人と過ごす中、寂しく荷物をまとめ、ドイツを後にしました。空港に見送りに来てくれる友人は誰一人いませんでした。

日本への帰国と再就職の困難

結局、目標設定もないままドイツに来た菊池さんの目論見は甘く、半年どころか、9ヵ月ドイツに滞在し、話せるようになったのはな日常会話レベルです。新聞は辞書があってもわかりませんし、ラジオもところどころの単語が理解できる程度です。

そんな菊池さんの日本での再就職が難しかったことは、想像するだに固くありません。履歴書には前職を辞めてからの1年の空白期間が空いてしまいますが、その間にオフィシャルなドイツ語の試験に合格したわけではありませんし、ドイツで仕事をしていたわけでもありません。

ドイツ生活から帰国すれば就活で引っ張りだこだと思っていた菊池さんも、しばらく転職活動を続け、ようやく、世間はそこまで甘くなかったことに気が付きます。

結局、自分はありったけの貯金と、キャリア形成でもっと重要な時期の丸々一年を費やし、日本料理屋でバイトをしにドイツにいったのだと悟ったのです。

ともあれ、帰国後、まだ28歳と若かった菊池さんは、どうにか前職の経験を生かした、地元のファイナンシャルアドバイザーの窓口業務の仕事を得ます。福利厚生も、給与も前職と比較し格段に下がることとなり、また、ドイツ語とも英語ともなんら縁のない業界でした。