挫折からフランス企業への就職:ニート、フリーター歴8年がヨーロッパ留学を通じて社会復帰した方法

自己紹介欄などでも何度か触れていますが、私は日本でFランの大学を中退後、ニート、フリーターなどのおおよそ職歴とは呼びづらい経験を経た後、流れ流れてチェコに行きつきました。

現在はフランスの会社に拾われ、心が折れそうなこともありますが、英語を活かした仕事をさせてもらったり、いろんな国へ出張に行かせてもらったりと、自分なりに満足したキャリアを送っています。

もちろん、海外留学や、海外就職が、今、ニートや引きこもりといった状況に陥っている人にとって、常に打開策になるとはいいがたいですが、それでも、将来の可能性の一つとして、なんらかのヒントになるかもしれません。

というわけで、今回は、私のニート時代の経験をもとに、ニートと留学(ただし、語学留学ではなく、正規の留学)、という側面にクローズアップした記事を書いていきたいと思います。

なぜニートになったのか

ニートになった時、私には時間だけはたっぷりありましたので、どうして自分がこうなったのか、あまり考えたくないながらも、考えてみたことがあります。

多くの人にも当てはまると思いますが、私には自負がありました。小学校に入ったばかりの時は算数が得意でクラスで一番テストを早く終わらせられたりと、学校生活やっていけると思っており、クラスでも打ち解けられていたほうでした。

希望に溢れており、将来は、億万長者とまではいかなくとも、父のようにサラリーマンになり、順当な人生を送っていけるものだと思っていました。

そんな自身の将来の希望に暗雲が立ち込め始めたのは、小学校を不登校になったときです。

当時は特に深い意味もなく学校を休み始め、気づいたら学校に戻りづらくなり、結局3年間をほぼほぼ何も勉強しないで過ごしてしまいました。

中学校に上がると、真面目に学校には行くものの、もはや小学校の遅れは取り戻せず、勉強には一切ついて行けなくなりました。

そして高校受験にいたり、自分の世間での立場、というものを改めて思い知らされるようになります。

自分の学力は底辺みたいなものだと何となく知ってはいたものの、高校に受験するにあたり、願書を提出できるところがあるのかわからないとわかったとき自分がいかに社会の落ちこぼれであるかという事実を突きつけられたのです。

そして幼馴染み友人の多くは、都内の進学校へと進学しました。

そんな中、私が唯一合格したのは、都内でも有数の低偏差値の都立高校です。

自己評価の中での自分と、知らしめられた自分の世間での立ち位置に絶望した私は、宿題を一切することもなく、ただでさえ悪い成績が、いっそう悪くなっていきました。

とはいえ、日本はまだ、名前さえ選ばなければ、書類さえ出せば合格できるような大学はたくさんあります。

色んな先生に頭を下げて留年にしないでくださいとお願いをし、なんとかぎりぎり高校を卒業した私が入学した大学も、いわゆる世間では「Fラン」と見なされるような大学のひとつでした。

Fランから不登校、ニートへ:脱線し続ける人生のレール

元々勉強の仕方を知らなかった私にとって、Fラン大学と言えど大学での生活は耐え難いものでした。

友達作りに失敗し、必修をほとんど落とし、気づけば大学での居場所は無くなっていたのです。

もともと酒づきあいが良いほうでもなく、講義はもちろん、プライベートでも大学との繋がりが希薄になっていき、次第に不登校になっていきました。

もちろん、自分に代わって出席簿を提出してくれるような友人もいませんし、最終的に退学、つまりは「Fラン中退」という世間で見なされる最悪のレッテルを貼られる形で、私の学歴は一旦幕を終えたのです。

さて、日本という国は、一度人生のレールを外れた者にとっては生きづらくできています(私のせいなのですが)。大学中退、ましてやFラン、とあっては、名のある企業は当然、自分を雇ってくれないでしょう。

当時、アルファベットのアの字も知らない自分は、この時点で、海外へ行く、という選択肢はありませんでした。

人生のレールを外れたあとも、恐ろしいことに人生自体は死ぬまで続きます。日銭を稼ぐために、私はフリーターとなりました。

朝の8時から夜の20時まで、カラオケの片づけをおこなって酔っ払いの大学生に絡まれたり、コンビニのレジに12時間立ち続けて、時給800円程度の収入を得ました。

1年続け、昇給はたったの20円でした。結局、私は色々なアルバイトを転々としたのち、どっと疲労を感じ、家に引きこもるようになりました。

それから、アルバイトはおろか、完全にニートとなる空白期間が、しばらく続くことになりました。

海外留学という選択肢は人生のリセットボタンではない

ニート、フリーター、実家への引きこもり、といった生活のサイクルが、数年続きました。中学の友人は、すでに大学を出て大企業に就職した者もいれば、家庭を持っている者もいます。

彼らと地元で顔を合わせるのがつらく、外へ出る機会がめっきり減りました。

あるときたまたまに会った親戚から、死んだ魚のような眼をしている、と罵倒されたのはこのころです。

これ以上、自分を保つために、この地元に留まるのは限界でした。一方で、他の県へいっても、自分の学歴、職歴でできる仕事というのは限られています。

そんな中、ニート、フリーターのサイクルを繰り返していた私は海外、というかヨーロッパに興味を持ち始め、ワーホリという選択肢を考え付きました。

この際、私は、海外に行けば何か変わる、という、ある意味現実逃避に近い感情をいただいていました。

以前の記事でも書きましたが、この時期、私はアイルランドでワーホリを体験しました。

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突きつけられた現実は、学歴も職歴もない私は、国の外でも中でもお荷物だということです。

日本でかき集めた貯金は、飛ぶように消えていき、アイルランド滞在の最後期には、10円のジャガイモに醤油をつけて生き延びる、という、戦時期の孤児のような生活を送ってました。

ただし、その時、私は絶望する代わりに、一つの教訓を得ました。結局、海外でも日本でも、真っ当な仕事を得るために必要なのは最低限の学歴であり、それがないと、一生社会的な弱者のままである、と。

アイルランドから死ぬような思いで日本に帰ってきた私は、その後、海外で正式な職を得るために、まず、どこかの国の大学を卒業し、いっぱしの学位をえる計画を立てました。このとき、20代中盤に差し掛かるところでした。

情報収集と再度海外への挑戦

唯一の希望を求めて行ったアイルランドへのワーホリは、経験不足、金銭不足、コミュニケーション不足と、海外経験のありとあらゆる悪い部分を詰め合わせたような形で終えられましたが、私はここで諦めませんでした。

日本ですでに社会的地位を得ている友人と会うには、すでに後ろめたさがあります。

長いニート生活で傷ついた自尊心や、社会の誰にも求められていない、という空虚心を満たすためにも、私は英語の勉強と、海外の学位についての研究を始めました。

紆余曲折を経て、私はチェコという、先進国ではないが、後進国でもない、エリートの集まりでもないが、通って損というほど出鱈目なカリキュラムではない国を見つけ出しました。

吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず

論語の一説ですが、くしくもその時、私は人間が自立すべき年齢であるという30歳に差し掛かっていました。

恐らく、日本で30歳と言えば、すでに社会経験を積み、キャリアを経て、すでに家庭を持っていてもおかしくない年頃です。

もはや、何か失敗して「若さ」を言い訳にできる年齢ではありません。

対して、30歳にしてチェコに渡った僕は、いわばゼロからのスタートでした。

今まであれだけ恐れていた失敗が、こちらでは文化の違いという言い訳を用いることができ、自然と恐れずに前向きに取り組めることが増えていきました。

恐らく、日本でニートや引きこもり、と呼ばれている人たちは、多かれ少なかれ、私同様、自分のプライドと社会の評価のギャップから、現実逃避を続けたいのだと思います。

波風を恐れるがあまり、日本社会と面と向かって取り組むことを避け、同じ世代の優秀な人々と比べられることを恐れていました。

今、私はすでに30歳半ばに差し掛かっていますが、ここチェコで、私のことを人と比べる同僚は誰もいません。

一人でビジネスの計画を立て、欧州中を飛び回る職を経て、ようやく、世間に顔向けできるような気がしてきました。

もちろん、これは私の方法ですので、海外経験はある意味、ショック療法のように効きました。

中には、海外なんて来なくても自立できる人はいますし、逆に水があわず帰ってしまう人もいますし、十人十色だと思います。

30歳はもう若いとは言えませんが、一概に、ただ、人生が詰んだ、と歎く年でもないということに、行動して私は気づきました。

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