10月19日、ロシアの大地がうっすらと白み始めるころ、ナポレオンと10万の大陸軍は、ついに1000㎞離れたパリへの撤退を開始します。凍てつくロシアの大地を追撃するのは、祖国を蹂躙された怒りに燃えるコサック騎兵です。
歴史上最も悲惨な遠征の一つ、と謳われるナポレオンのロシア遠征の後半、ロシア軍による追撃戦の様子をおっていきます。
前の記事はこちらを参照:
【1812】ナポレオンのロシア遠征:戦争の変化がもたらした戦略的失敗とは
ナポレオンの撤退:スモレンスクへ
モスクワは、ナポレオンの入城とともに、ロシア軍スパイの放った火により3分の2が焼失しました。どさくさに紛れて狼藉を働いたフランス軍は、この時、微々たるものながら、兵糧や靴、防寒具を手にしています。中には、ロシアの民家から奪った貴重品類を身に着ける者もいました。
ところが、出発から3日目、早くも行軍に暗雲が立ち込めます。大雨が一行を襲い、泥のぬかるみの中、多くの荷駄を放擲する羽目となりました。この中には、食料や、モスクワで奪った防寒具も含まれており、生活物資の不足は後々ナポレオン一行を苦しめます。
さて、ナポレオン一行は中都市スモレンスクを目指して撤退します。距離にして、モスクワからおよそ20日くらいの行軍が予想されていました。
この間、ナポレオン軍はひっきりなしにコサック騎兵の攻撃に悩まされることとなります。ただし、ナポレオンの望むような決戦ではなく、じわじわと、ハイエナが弱った小鹿を痛めつけるように、深夜、早朝に、攻撃を仕掛けては、また離れていく、というやり方です。
ロシア軍の目的は明らかでした。徹頭徹尾ゲリラ戦を続け、フランス軍に眠る暇も、民家からの食糧も与えない、という作戦です。敵の殺戮ではなく、食糧を運ぶ馬などを攻撃し、フランス軍が迎撃に繰り出すと、ヒット&アウェイの原理で遠ざかっていきます。
この作戦の効果は、如実に表れ始めます。多くのフランス兵が、寝不足と栄養失調で行軍についていけず、脱落していくのです。
力尽きて行軍を脱落した兵隊は、道で倒れ、やがてコサック騎兵や、地元の農民によって捕えられ、捕虜となりました。ただし、交渉のための捕虜ではありません、祖国を蹂躙した見せしめに、残酷に嬲って憂さを晴らすためです。
あるものは、性器を切断され、眼をくりぬかれ、顔を焼かれ、ダーツの的にされ、栄養失調で身動きの取れないフランス兵は、生き地獄を味わいながら死んでいきました。
こと、ここに至り、追撃戦は単なる、ロシア軍側による一方的な虐殺に様変わりを遂げたのです。今まで戦場を駆け抜け、敵国の王を屈服させていた狩人ナポレオンは、初めて狩られる側に回りました。
11月:冬の訪れ
11月に入り、道半ばながら、すでにロシアの大地は雪に覆われ始めています。フランス軍の中には、凍死者が現れ始めます。まずは体の弱っている負傷者が、続いて、健康なものまでも、朝起きると冷たくなっている、という有様でした。
モスクワ入城時に、フランス軍はモスクワの高級品を多く略奪しました。あるものは、故郷の母や妻に送るために、高級な毛皮のコートやスカーフ等を。皮肉なことに、彼らは、妻や母に送る前に、自分たちの体を温めるため、婦人用のコートを羽織り始めます。すでに気温は零下10度に達しようとしていました。
寒さに加え、飢えがこの時期ナポレオン一行を襲います。荷を引く馬が寒さと飢えでバタバタと倒れはじめ、飢えたフランス兵たちは、こうした弱った馬たちの肉を貪り始めます。火をたく薪もなく、大半は生の肉をほおばる形です。
馬や牛に続いて、ペットのネコや、狩りに用いる猟犬などが、続いて飢えたフランス兵によって縊り殺され、彼らの胃を満たす食料となりました。
11月9日、ナポレオン一行は念願のスモレンスクに到着します。
ところが、スモレンスクにはナポレオンの期待した食料物資が残っていなかったばかりか、モスクワへ来る前にここに残していた負傷兵達の看病のため、さらなる食料物資が必要な状況でした。ナポレオンは、ここで冬を越すことはできないと判断します。
ナポレオンは、非情にも負傷兵をスモレンスクに置き去りにする命令を下します。その数、15,000とも言われています。
結局、スモレンスクで満足な補給ができないまま、ナポレオンはせわしなくこの街を後にします。置き去りにされた兵士たちがどのような運命を辿ったのか、想像するだけ野暮でしょう。
Beresinaへの死の行軍
次なるナポレオンの目的地は、スモレンスクから240㎞西に離れたBeresina川です。
モスクワからスモレンスクまでの行軍は、まだBeresinaまでの行軍に比べて秩序が保たれたといわれています。Beresinaまでの行軍の中では、すでに人間を人間たらしめていた秩序や尊厳は失われ、死体のコートの奪い合い、馬肉の奪い合いが兵士間で横行します。
11月も中盤に差し掛かり、気温は氷点下15度から25度を毎日のように記録していました。ぼろぼろになった革靴のそこで、足の皮膚がめくれます。凍傷にかかった耳や鼻は黒ずんで、切断せざるを得ない状況です。。
とある将校はこの状況を故郷にむけて手紙にしたためています。「この従軍に派兵された兵士の中に、君らの恋人や旦那が含まれているなら、残念ながら、君らの大半は彼らの耳や鼻が出発時と同じように揃っていると期待しないほうがよいだろう」、と。
11月26日、2週間の地獄の行軍を経てようやく、ナポレオン一行はついにBeresina川に到着します。
ところが、ここでナポレオン一行を待っていたのは、新たな地獄でした。川には橋がなく、ここで大砲や武器など、川を渡らせるには、橋をかけなくてはいけません。
結局、ナポレオンは、兵たちは氷点下の寒空の下、川に体ごと浸かって、橋をかける作業に徹するように命じます。この作業の中でも、力尽きた者が溺死、凍死していきました。
さて、影のようにナポレオンを負ってきたロシア軍は、遠くから、このナポレオン軍の土木工事をじっと見つめています。ロシア軍の目的はナポレオン軍の殲滅です。ここで、未だ5万人の兵と大砲を装備したフランス軍に襲い掛かる真似は、ロシア軍は行いません。ゆっくりと、フランス軍が弱るのを待つだけです。
ロシア軍が行動を始めたのは、ナポレオン軍が橋を完成させ、兵士たちが橋を渡り始め、一行が岸の向こう側とこちら側に分断されたその時です。すでに日が暮れて、辺りは闇に包まれていました。
ナポレオンと幕僚は、そのときすでに橋を渡り終えていましたが、ナポレオンに付き従ってきた市民や、負傷兵などは、まだ橋を渡り終えずにいました。そのタイミングで、クトゥーゾフの命令で、闇の中から現れたロシア兵は、フランス軍へ一斉に襲い掛かります。
多くの者が橋に押しかけ、パニックになって濁流に飲みこまれていきました。まだ、橋の向こう側には女性や負傷兵を含め、数千人が残されていましたが、ナポレオン軍は、これを置き去りにし、橋を破壊します。
彼らがこの後、復讐に燃えるロシア軍によってどのような運命を辿ったか、誰もが口を閉ざします。このBeresinaの一件で、ナポレオンはさらに半分の兵士を失ったといわれています。
最後の希望Wilna
Beresina川を越えたナポレオン一行は、最後の希望であるWilnaを目指します。ここでこそ、補給が行えるはずでした。
11月も終わり、12月に差し掛かると、気温はついに氷点下35度を記録します。ブリザードが視界を阻み、すでに飢え、寒さ、疲労で満身創痍のフランス軍は、この行程でも多く脱落していきます。
ついに食人行為が行われるようになりました。ロシア兵によって、この時期、友軍の裸の肉を生で貪り食うフランス兵の姿が目撃されています。
ナポレオンは、12月5日、フランス兵をロシア大地に置き去りにし、わずかな守衛とともに先にパリに戻る決意をします。ここで、ナポレオンは一向に対し「Wilnaに入城しろ」と最後の命令をくだしました。
ところが、死ぬような思いで12月9日に残存したフランス軍がWilnaに到着した時、町は略奪でほとんどの物資が残っていず、限界に達したフランス兵の一部は、発狂し、町を半狂乱で彷徨います。
翌日、コサック騎兵がフランス軍に襲撃を仕掛けます。ここでもフランス軍は徹底的にやられ、逃げ出すように西へと退却を続けます。
最終的に、彼らの死の行軍は、12月13日、彼らの行軍を開始した町、Njemenに達した時点で幕を閉じたといわれています。
この戦いを通じて、生き延びたフランス側の兵はわずか2万人といわれています。五体満足な姿で故郷の地を踏んだものは、もっと少なかったでしょう。60万を冠した大陸軍を失ったことで、これを期に、欧州では反ナポレオンの機運が再燃し、第六次対仏大同盟の樹立へと結びついていきます。