こんにちは、タケルです。
本日もこのブログにお越し頂きありがとうございます。
前回は水晶の夜の真実について書きました。
今回はナチス党が結成される前のドイツについてお伝えしていきたいと思いますが、皆様はドイツがどう第一次世界大戦に関わり、最終的にどうなったかご存知ですか?
第一次世界大戦末期にドイツで広まったプロパガンダ「背後の一突き」とは
1914年6月28日のサラエボ事件をきっかけとしてオーストリアがセルビアへ宣戦し、ロシア帝国がセルビア側に回ったことからドイツ帝国もオーストリアとの同盟を理由にロシア帝国に宣戦を行い、参戦しました。
しかし、1918年になると戦局が悪化し、オーストリア等の同盟国が相次いで降伏し、長期戦の疲れによりドイツ国内は戦意喪失が起きていました。
その中で戦争を進めようとする海軍に対し、溜まりかねた水兵が大暴動を起こした「キール軍港の水兵反乱」によって、時の皇帝ヴィルヘルム2世が退位するなど、国内が混乱に陥りました。
この「キール軍港の水兵反乱」が引き金となって、ドイツが休戦協定に応じ、第一次世界大戦の敗北が決定します。
この一連の流れを「ドイツ革命」と呼ぶのですが、当時このドイツ革命の首謀者がユダヤ人だったという「背後の一突き」と呼ばれるプロパガンダがありました。
そのプロパガンダではユダヤ人主導による戦争妨害、裏切りにより、ドイツは敗戦を決定づけられ、ベルサイユ条約により、第一次世界大戦敗戦国の賠償金、総額1320億金マルク(現在の日本円にして約200兆円相当)を負担することになったと責任転嫁を画策したのです。
このドイツ革命の裏にあったユダヤ人主導の戦争妨害、裏切りと唱えられたプロパガンダと当時のドイツはどんなものだったでしょうか。
順を追って説明していきたいと思います。
■ドイツ革命について
まずはドイツ革命が起きた背景について簡単にお話ししていきましょう。
第一次世界大戦が開戦した直後、ヴィルヘルム2世の指導の元、ドイツはフランスにも宣戦布告し、ベルギーを突破してパリに侵攻しようとしましたが、ベルギーの中立を守るようドイツに指示していたイギリスの反感を買い、イギリスの対ドイツ参戦を招いたことでより戦線が激しい消耗戦に発展し、フランス軍の殲滅に失敗しました。(これを 第一次マルヌの戦いといいます。)
Durch Belgien stießen die deutschen Truppen nach Nordfrankreich vor. Die geplante weiträumige Umfassung von Paris gelang jedoch nicht. Mit britischer Unterstützung konnten die französischen Streitkräfte im September 1914 den deutschen Vormarsch an der Marne stoppen. Neue Waffen wie Maschinengewehre und schnell feuernde Artillerie führten in den ersten Kriegswochen zu unerwartet hohen Verlusten. Die Vorstellung von einem raschen Kriegsende erwies sich als Illusion.
引用:LeMO Kapital – Die Schlacht an der Marne 1914私訳:ドイツ軍はベルギーを突破して、フランス北部に進んだが、計画されていたパリの大規模な包囲は成功しなかった。イギリスの支援により、フランス軍は1914年9月にマルヌでのドイツ軍の前進を阻止されたのだ。機関銃や速射砲などの新しい兵器は、戦争の最初の数週間で予想以上の損失をもたらした。戦争がすぐに終わるという考えは幻想であることが判明したのだ。
この敗北により軍部がヴィルヘルム2世の指導力を奪っていくことになります。
ドイツ最高司令部は1年間ヴェルム2世を説得し、1917年2月1日より無制限潜水艦作戦を再開することを決定しました。
無制限潜水艦作戦とは敵国と認める船に対して無警告で攻撃を行う作戦で、ドイツのこの決定に対してアメリカは激怒し、第一次世界大戦への参戦を決めました。
その最中、1916年から1917年の冬にカブラの冬と言われる大飢饉がドイツ全土で発生し、戦争による消耗に加え、輸入に頼っていたドイツの食糧が途絶えた事による深刻な食糧供給不足が発生しました。(アメリカは小麦輸入元第一位でした。)
戦争による敵対国との断交や無制限潜水艦作戦による海上交通路断絶のせいで食糧が確保出来なくなり深刻化したドイツ国内では、長引く戦争に対する疲れと軍部に対する不信感が生まれてきました。
この政府や軍部に対する不信感から、例えば1918年にはベルリンの兵器製造工場起きたストライキなど、各地で暴動やストライキが起こるようになり、軍部は武力で弾圧する為、ますます国民の不信を煽り、ドイツ革命へと繋がっていくのです。
国内の逼迫した経済状況と深刻な人的資源の不足、国民の疲弊状態を見て、ドイツ軍西部戦線司令官エーリヒ・ルーデンドルフはアメリカ軍が本格的に戦線に来る前に、攻勢をかけてイギリス・フランス軍に壊滅的な打撃を与え、休戦に追い込もうと考えました。
1918年春にソビエト政権と単独講和を結び、東部に配置していた軍隊を西部に呼び、イギリス・フランス軍に対して戦いを仕掛けました。(皇帝の戦い)
カポレットの戦いでイタリア軍を大破し、その勢いで一時はフランスのパリまで攻め上がるなど、快進撃を続けましたが、アメリカ軍の物資の到着や、連合国軍(敵軍)の立て直しが早く、ドイツは撤退を余儀なくされます。
この後、1918年11月3日に「キール軍港の水兵反乱」が起こり、それに端を発した大衆蜂起が起こり、ヴェルヘルム2世の退位に繋がっていきます。
Trotz der aussichtslosen Lage rief die deutsche Marineleitung am 24. Oktober 1918 zu einem Flottenbefehl gegen England auf. Kieler Matrosen widersetzten sich diesem Befehl. Aus diesem Protest entwickelte sich in den folgenden Tagen eine landesweite Revolution. In zahlreichen Städten bildeten sich Arbeiter- und Soldatenräte. Es brachen Streiks und Demonstrationen aus. Das kaiserliche Militär stand der protestierenden Bevölkerung machtlos gegenüber. Reichskanzler Max von Baden verkündete am 9. November eigenmächtig die Abdankung von Kaiser Wilhelm II.
引用:Geschichte kompakt – Novemberrevolution 1918私訳:絶望的な状況にもかかわらず、ドイツ海軍司令部は1918年10月24日にイギリスに対する海軍命令を要求した。キールの船員はこの命令に反対をする。その後の数日間、この抗議から全国的な革命が発展したのだ。労働者と兵士の評議会は多くの都市で結成され、各地でストライキとデモが勃発した。抗議する人々に対して帝国軍はなす術もなく、11月9日にマックスフォンバーデン首相はカイザーヴィルヘルム2世の退位を宣言することになる。
ここまでがドイツ革命が起きた背景になります。
■背後の一突きについて
さてここではそのドイツ革命の先導者がユダヤ人だったとされる説について書いていきたいと思います。
そもそもユダヤ人が本当に主導したのでしょうか?
上記でも説明しましたように、ドイツ革命の経緯は、戦争の長期化と飢饉によって国が疲弊し、戦意が崩壊しかけていたにも関わらず軍部が強引に戦争を推し進めようとしたことで、国民の反感が爆発(=ドイツ革命)し、休戦協定へと繋がったとお伝えしました。
この陰謀説は、強引に戦争を進めた軍部が責任を逃れる為に、「戦争に負けたのは戦争に非協力的な左翼派の人間の妨害、裏切りによるものだ。」と責任の所在をすり替えようとしたことを指しています。
Zwar hatte die Oberste Heeresleitung im Herbst 1918 erkannt, dass die erschöpften deutschen Streitkräfte zur weiteren Kriegsführung nicht mehr imstande waren, dass Resignation und Desertion um sich griffen und ein alliierter Durchbruch nur eine Frage von Wochen sein konnte – weshalb sie durch die Reichsregierung Waffenstillstandverhandlungen aufnehmen ließ. Die Verantwortung für die Niederlage wollten die führenden Militärs allerdings nicht übernehmen: Gezielt verbreiteten Paul von Hindenburg und Erich Ludendorff in den Jahren nach 1918 das Bild eines an der Front unbesiegten Heeres, dem die Heimat durch Friedensinitiativen, linke politische Agitation, Streiks und Sabotagen in den Rücken gefallen sei.
引用:LeMO Kapital – Die Dolchstoßlegende私訳:1918年の秋、最高司令部は、疲弊したドイツ軍がもはやそれ以上の戦争を行うことができず、辞任と脱走が横行し、連合軍の突破口がほんの数週間である可能性があることを認識していたのである。そこでドイツ政府は停戦のための交渉を開始している。しかし、軍隊本部は敗北の責任を回避しようとする。1918年以降、パウル・フォン・ヒンデンブルク(参謀長:実質軍を指揮した人)とエーリッヒ・ルーデンドルフ(参謀本部次長)は、左翼団体が和平工作、政治的動揺、ストライキ、裏での妨害活動を通じてドイツ内部から崩壊に導いたこと、軍隊自体は戦線では無敗だったというイメージを意図的に広めたのである。
一方、当時のユダヤ人は法の下では平等にも関わらず、しばしば二級市民としてドイツでは扱われ、至る所で偏見や差別の対象になっていました。
多くのユダヤ人はこの第一次世界大戦時に愛国心を持って忠誠を誓えば、状況が変わることを信じ、実際約10万人のドイツ系ユダヤ人がドイツ軍として第一次世界大戦に参加しました。
そして彼らの期待通り、開戦当初、1914年8月にヴィルヘルム2世の「私はドイツ人しか知らない(=ドイツ国民は皆同じ)」という宣言によって国民の中にあった反ユダヤ主義は薄れていきました。
しかし、戦争が長引き、戦局が悪くなると、軍の中でも誰かに責任を転嫁しようとする空気がユダヤ人を襲います。
Doch mit fortschreitendem Kriegsverlauf verstärkten antisemitische Organisationen wie der “Reichshammerbund” erneut ihre judenfeindliche Hetze. Zahlreiche Eingaben erreichten beispielsweise das Preußische Kriegsministerium: angeblich wären überproportional viele Juden vom Wehrdienst befreit, sie wären “Drückeberger”, die sich dem “Dienst am Vaterland” entzögen. Die antisemitische Propaganda sollte sich als erfolgreich erweisen: Im Oktober ordnete der preußische Kriegsminister eine sogenannte “Nachweisung der beim Heere befindlichen wehrpflichtigen Juden” an.
Als “Judenzählung” ging sie in die Geschichte ein. Unter den zahlreichen jüdischen Soldaten sorgte sie für blanke Empörung.
引用:Themen – Juden im Ersten Weltkrieg私訳:しかし、戦争が進むにつれて、反ユダヤ主義組織がユダヤ人に関する噂を扇動しており、プロシア戦争省は多数の報告を受けていた。例えば不自然に多くのユダヤ人が兵役から免除されており祖国ドイツに反している裏切り者だといった内容の報告書がある。それは反ユダヤ主義のプロパガンダだった。10月、プロイセンの戦争大臣は、いわゆる「軍隊に徴兵されたユダヤ人の証拠」を命じた。それは「ユダヤ人の国勢調査」として歴史に名を残したのである。それは多くのユダヤ人兵士の間で怒りを引き起こした。
つまり、戦争の責任逃れをしたかった軍部は敗因を左翼団体に擦りつけようとし、その流れに便乗した反ユダヤ主義者はユダヤ人に敗因を擦りつけようと在らぬ話をでっち上げたことになります。
3万人ものユダヤ人が第一次世界大戦において、勇敢な功績を残したと表彰されたにも関わらず、最終的に反ユダヤ主義組織と軍部により作られたこの「背後の一突き」が歴史的大敗を喫し、プライドが傷ついたドイツ国民に根強く残り、その後の世界恐慌などによる情勢不安の中、ナチス党の誕生と反ユダヤ主義、強いてはホロコーストに繋がっていくきっかけとなりました。
Die Dolchstoßlegende (auch Dolchstoßlüge genannt) war eine Verschwörungstheorie, die von der obersten Heeresleitung (OHL) des deutschen Kaiserreichs nach dem ersten Weltkrieg zu Zeiten der Weimarer Republik in die Welt gesetzt wurde.
引用:StudySmarter – Dolchstoßlegende私訳:背中を突き刺す伝説(背中を突き刺す嘘としても知られている)は、第一次世界大戦後のドイツ帝国の最高軍司令部(OHL)によって開始された陰謀説だったのだ。
■感想
前回「水晶の夜」の悲しい現実を調べて、とても心が痛んだのですが、それ以前からユダヤ人に対するドイツ人の酷い偏見や差別は存在していたのですね。
よく「ドイツ人は罪を認めれば死罪というふうに思っているから絶対に自分が間違っていること認めない」といった偏見がありますが、今回調べてみて、確かに認めたら死罪レベルの酷いことを過去にしてきているなぁと感じました。
また、ユダヤ人差別がなくなるという一筋の希望を信じて、戦争にも参加し厳しい戦いを潜り抜けて功績を挙げたユダヤ人が、この反ユダヤ主義の扇動により今後30年でより厳しい弾圧を受けることとなってしまったのは、とても悲しいことだなと思いました。
本日はここまでにします。
最後まで読んで頂きありがとうございました。